少年事件の中で特別保存とされずに廃棄されてしまった「長崎男児誘拐殺害事件」

裁判所が定める特別保存の規定

◆「1項特別保存」とは、「記録又は事件書類で特別の事由により保存の必要があるものは、保存期間満了の後も、その事由のある間保存しなければならない。」(事件記録等保存規程第9条第1項)と定められているもので、当該事件に関係する特別の事由により、同事件の当事者や関係者などからの要望に基づいて、特別保存とされるものです。

これに対して、「2項特別保存」とは、「記録又は事件書類で史料又は参考資料となるべきものは、保存期間満了の後も保存しなければならない。」(事件記録等保存規程第9条第2項)と定められているもので、史料又は参考資料となるべき記録等が特別保存とされるものです。

◇少年事件の廃棄事案であって保存又は廃棄の認識があった事案のうち、2項特別保存を検討した上で、要件に該当しないと判断して要領策定前に廃棄した事案(類型Ⅰ)と2項特別保存につき詳細な検討をすることなく要領策定前に記録を廃棄した事案(類型Ⅱ)の調査結果

○類型Ⅰ1

長崎家裁本庁(番号27)平成15年男児誘拐殺害事件

【事件概要】

長崎男児誘拐殺人事件とは、2003年7月1日に長崎県長崎市で発生した、男児が誘拐され殺害された事件。

2003年(平成15年)7月1日午後7時頃、長崎市内の大型家電量販店を家族で買い物に訪れ、一人でゲームコーナーで遊んでいた男児に対して、加害者の当時中学1年の少年が「お父さん、お母さんに会いに行こう」と騙して連れて行く。路面電車に無賃乗車し、商店街を連れ回した後、長崎市万才町の築町パーキングビル屋上で男児を全裸にし、腹などに殴る蹴るの暴行を加えた。更にハサミで性器を数箇所切り付けた。しかし防犯カメラが設置されていることに気づいてパニックになり、泣き叫んでいた男児を「何とかしなければ」と思い、男児を抱え上げて手すり越しに、屋上から約20メートル下の通路に突き落として殺害した。

犯行後から補導されるまで、少年は通っていた中学校で、事件について冗談を交えて話したり(同級生証言)、男児と出会った電器店でゲームソフトを購入していた。

犯行現場に近い繁華街に設置されていた防犯カメラにより、7月9日に加害者の少年が補導される。少年は事件当時12歳であったため、逮捕することができず補導という形であった。この事件以前にも少年は、この事件と類似した異常性欲が顕著に見られる事件を20件以上引き起こしていた。なお、この事件に関しては、イギリスで1993年に起きたバルジャー事件との類似性についても多く報道された。

また、少年は小学3年の頃に友人に股間を蹴られ病院に行っており、この頃から男性器への執着が生まれていったとされる。2003年8月6日付けの『週刊新潮』では「ボクは、ずっと前におなじことされたもん。裸にされて怖い思いしたから。それでも、じっと黙っとったもん」「怖かったけど、変な気持ちになった。だから、ボクも中学生になって、同じことをしてもいいと思ったからね」という話が載せられている。

加害者が中学1年の少年であったため、凶悪な少年事件として国内を震撼させた。加害者の少年は、「男児の性器に対する拘りを払拭することは出来ない」と述べており、児童自立支援施設を退所できないまま、中学校を卒業した。

【家庭裁判所の審判】

長崎家庭裁判所は、審判にあたり専門家チームによる2か月間の精神鑑定を実施した。その結果、少年の特質として

「パニックになりやすい」

「対人共感性、対人コミュニケーション能力が乏しい」

「母親を異常に恐れている」

と分析。一方で、学校の成績は学年トップクラスで、なおかつ12歳でありながらすでに三国志を読破しているなど、知能面での障害がないことから、少年をアスペルガー症候群であると診断した。

しかし、家裁はアスペルガー症候群について「事件に影響はしたが、理由ではない」と慎重な断りを入れた上で、直接的な背景は「中学校に進学して環境が激変したこと」「両親の不仲が続き、心理的負担が大きかったこと」などを列挙。そして「当日、帰宅が遅れたことを母親に叱責されるのを恐れて」緊張状態のまま家を離れたことが引き金になり、従来から抱いていた男性性器への関心が強迫症状として表れたと認定した。

母親は少年に非常に厳しく接する面もあったが、まだ12歳の少年に毎月10万程度の小遣いを与えていた過保護な面、少年が深夜に帰ってこなくても心配もしなければ叱りもしないという放任の面もありながら、気に入らない事があるとすぐに癇癪を起こし、騒音を起こすなど、近隣住民や知人からは「身勝手な人」として有名であった。取材を受けた際にも報道陣を睨みつけ、「迷惑なんですよね、子供のしたことでこんな」と話し始め、一切の責任を感じていない旨を記者に語った。

事件の3か月後、加害者の両親は被害者の両親に謝罪をしたが、被害者家族にとっては形式だけの真摯さのない虚構の謝罪としか受け取れないものであった。また、謝罪するまでは雲隠れするかのように沈黙を続けており、この事も被害者家族の加害者両親への憤慨を助長させる結果となった。

家裁は児童自立支援施設への送致と1年間の強制措置(鍵付きの部屋に入れられる)を認め、少年は2003年9月、国立武蔵野学院(埼玉県さいたま市緑区)へ入所した。強制措置については、入所後1年ごとに再検討が行われており、2006年9月に3度目の延長がなされたが、4度目の延長はなされず、2007年9月に解除された。

【その後】

事件後しばらくして、少年の両親と記者との対話が『長崎新聞』に掲載されたが、これに対して遺族は手記で内容が矛盾していることを指摘、加害者である少年もその家族も許せない旨を発表。

18歳になった加害少年が、2008年9月17日に宿泊していた九州内のホテルを抜け出し、一時行方不明となり9月19日に長崎市内の路上で保護された事が、2009年5月28日に長崎県の「長崎こども・女性・障害者支援センター(児童相談所)」の発表で明らかになった。

(Wikipediaより)

資料廃棄調査結果

廃棄時における管理職は、長崎が地元の職員から、本件事件は長崎では有名な事件だと聞いて、廃棄してよいか疑問が生じたため、本件記録の廃棄について他の管理職に相談した。なお、相談を持ちかけた管理職は、2項特別保存の判断は現場に任されているものと考えていた。2人の管理職は、本件事件が2項特別保存の要件に該当する事件であるかを検討した。その結果、相談を受けた管理職は、本件事件は全国的に社会の耳目を集めた事件ではないと考え、また、少年事件記録が調査研究の対象になったという事例を聞いたことがなく、外部からの閲覧が許可されることがほとんどなく調査研究の対象にもならないため、2項特別保存の要件に該当しないと考え、さらに記録庫の狭隘も踏まえ、特別保存に付す必要性もないと考えた。同管理職やその他の職員から所長に対し相談や正式に諮られることはないまま、本件記録は廃棄された。

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